■世界遺産見てある記 ロシア編6
いままで5回続きけてきた、ロシア編も今回で最後です。最後にちなんでとっておきの見所をご紹介しましょう。
サンクトペテルブルグから、南西にバスで約1時間。フィンランド湾に面し、噴水がとくに有名な宮殿があります。ピョトール大帝の夏の宮殿(ペテルゴーフ)。第二次大戦でドイツ軍に破壊されましたが、現在は見事に修復も終わり、ロシア全土のみならず、ロシア観光の海外の旅行客も多くが訪れる世界遺産の1つです。ピョトール大帝がフィンランドとの戦争(北方戦争)に勝利した記念に作られたものといわれています。
訪れたときは、ペテルブルグからずっと雨。途中に、大統領の避暑地としての宮殿があり、さしずめ日本でいえば、葉山や軽井沢といった場所。最近では、一般の富裕層の別荘も増えてきているという話です。
バスを降りると雨は上がり、白い壁と金の装飾の美しい建物が眼を引きます。案内によれば、宮殿と庭を散策に要するツアー観光は約1時間。たっぷり歩かされました。この宮殿の観光の目玉は、なんといっても噴水です。遠く30kmはなれた水源から引いた水を、海岸段丘のような地形の落差を生かして、園内の64の噴水と142にもおよぶ水の吹き出し口に供給しているそうです。
宮殿内は、大きく上の庭園(フランス式)と、下の公園とに二分され、それぞれ約1時間も見学にかかります。上の庭園から望むフィンランド湾と下の庭園の景色は圧巻です。ディズニーランドの世界とでもいいましょうか、ファンタスティック、メルヘンの世界です。必然的に、ここからの景色をカメラに納めようと人でごった返していました。このポイントに当時の帝政ロシアの貴族の衣装を着た人達がいて、記念撮影をいっしょにしてくれるご商売の方もいました。なかなか商魂たくましいとプチ感動。
さて、下の公園は森の中に、銅像やモニュメントといっしょに噴水が点在しています。一番おもしろかったのが、「いたずら噴水」。子供が通ると、そのときだけ、急に水が出てきて観光客にかけます。子供は大騒ぎ。かかるのが分かっていながら、行ったり来たり。よくよく見ると、噴水の後ろにいる観光客を装った男の人が、足で噴水のスイッチを操作していました。そこかしこに趣向をこらした噴水があり、ロシア旅行の必見の地です。
ペテルブルグやモスクワのいろいろ建物は、曇り空の冬が長いためなのでしょうか、その反作用からか、じつに外壁の色は多種多様です。レモンイエローやマリンブルー、グリーン、薄いピンクなどが多く使われ、それに白色をたくみに合わせた色使いは見事の一言に尽きます。
エカテリーナ宮殿(※写真クリックで大きい画像が見られます)その中でも、一押しは琥珀の間(撮影禁止でした)で有名なエカテリーナ宮殿。ペテルブルグから南へ約バスで一時間。水色と白の外壁がマッチし、その建物は正面の長さ300mを裕に越えます。
西田敏行が主演した「おろしや国酔夢譚」の大国屋三太夫が、エカテリーナ女王に謁見したことでも有名です。この宮殿の見所は琥珀の間です。
もともとバルト3国を含め、ロシアの琥珀は有名です。映画「ジュラシックパーク」に出てくる蚊の化石が入ったものを思い出してください。モスクワ・ペテルブルグなどのどこのおみやげ物屋さんでも売っています。半透明の薄い茶色から濃い色、黄色がかったもの、赤に近いものと多種多様です。
さて、この宮殿も前述のペテルゴーフ同様、ドイツ軍に進行により破壊され、琥珀の間はすべて持ち去られて行方知れずになりました。1980年のソ連時代から修復が始められ、2003年に完成。まだ5年前のことです。およそ2トンにおよぶ琥珀をタイル状に仕上げ、部屋一面に貼り付けてあります。重厚でありながら、温かみさえも醸し出す不思議な空間です。琥珀は、木の樹液が石化したものですから、見た目よりはかなり軽いものです。それを磨いて加工したものが2トンですから想像を超えます。当時の帝政ロシアの財力とパワーの凝縮といっても過言ではありません。
ロシアを訪れるまでは、共産主義の権化だから暗い国だろうなと想像していました。しかし、文化・歴史・美術品ともに、世界の一級品たるものばかりです。現在、国をあげて空港や高速道路などのインフラ整備を急ピッチで進めています。これからの観光の主役に躍り出ることは必定です。機会があればぜひもう一度訪れたい、そんなロシアです。
■世界遺産見てある記 ロシア編5
ロシアという国名に少し違和感をおぼえるのは、私だけでしょうか。どうしても「ソ連」という言葉を頭の中で、翻訳するかのように「ロシア」と言い換えることになってしまう。
前置きはさておき、というわけでロシアの首都モスクワ。前号までに紹介したサンクトペテルブルグの後に、1712年に遷都された都市です。みなさん、モスクワから何を連想しますか。「赤の広場」「レーニン像」「クレムリン」「モスクワのバレエ」「サーカス」などいろいろ思い浮かぶことでしょう。
赤の広場ではまず、「赤の広場」から。旧ソ連の時代にミサイルや戦車などの軍事パレードを行なっている映像を、一度は目にした方も多いことでしょう。テレビで見るとすごく広く感じますが、意外にそうでもありません。横300m×縦150mほどでしょうか。赤の広場の「赤」は、さも社会主義の赤をイメージさせますが、さにあらず。古代スラブ語では、美しいという意味だったそうです。またクレムリンは、「城壁」を表わす言葉といわれています。壁の向こうはクレムリンであり、ロシア政府の大統領府などロシアの中枢機関が赤の広場を見下ろすように建ち並んでいます。
この赤の広場は、ソ連崩壊の波を如実に表わしている点があります。この広場の中心に旧ソ連の「レーニン廟」象徴的に配置されています。この正面には、1921年にレーニンによって開設された国立百貨店(グム百貨店)があります。そうですね、銀座の三越・松坂屋・松屋をなどのレベルのものと思えばよいでしょう。
話は戻って、レーニン廟の真ん前。広場の先150mぐらいのところに、サプライズな店舗が存在します。「セリーヌ」「エルメス」です。資本主義の象徴のような、二つの店から、レーニン廟が正面に見えるわけです。びっくりでしょう。共産主義の権化ともいえるレーニンのお墓の前に、資本主義の象徴のような店舗が存在するのですから。「どこへ行ってしまうのロシア」って感じでした。
そうそう、昔の軍事パレードなどで、重車両が通ったためでしょうか、けっこう石畳がガタガタでした。
聖ワシリー聖堂赤の広場の南側にもうひとつの有名なものに、玉ねぎ型のドームを持つ「聖ワシリー聖堂」があります。正式には「ポクロフスキー聖堂」。イワン雷帝の時1560年の建設といいますから、日本では戦国時代の真っ只中といえます。現在の形になったのは、17世紀ごろといわれています。
ここには、ちょっと怖い話があります。この建物の設計は、ポストニクとバルマの手によるものとされています。
イワン雷帝は、この建物のあまりの美しさに驚き、二度と同様なものができないように二人の眼をくり抜いてしまったといわれています。ひどい話です。
余談ですが、台湾の故宮博物館でも同じような話を聞いたことがあります。すべてではないでしょうが、昔の中国皇帝は二度と同じレベルの宝物を作らせないために、また付加価値を上げるためにも、その工芸家を生涯囲い込んだり、殺したりしたともいわれています。工芸家もさるもので、生涯かけて数作品しか作らなかった例もあるとか。
話は戻って「聖ワシリー聖堂」は、ロシアの教会を代表する建築物であることだけは事実です。現在は、国立歴史博物館になっています。
■世界遺産見てある記 ロシア編4
先ずもって遅まきながら、「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお引き立てのほどお願いいたします」
さて、今回はエルミタージュ美術館の冬の宮殿としての側面からお話を進めていきたいと思います。
私も個人旅行で、ドイツやイギリス、イタリア、スペインなどにある有名な宮殿や王宮を見てきましたが、エルミタージュの宮殿装飾は、その中でもブルボン王朝のヴェルサイユ宮殿にも勝るとも劣らぬものといえるでしょう。ロマノフ王朝恐るべしってところでしょうか。
白大理石と金箔の装飾をふんだんに使った黄金の客間あり、金箔が貼られた円柱がみごとな紋章の間、また、大ホールともいえる冬の宮殿としての公式の広間である玉座の間などが記憶に焼きついています。また、孔雀石の間や白の間、ラファエロの回廊など枚挙にいとまがありません。 玉座の間の玉座とその背後の壁には、ロマノフ王朝の紋章である双頭の鷲とロシアの守護神である聖ギオルギーが彫られています。
余談になりますが、双頭の鷲というと、どうしてもドイツの行進曲「双頭の鷲の旗の下に」を思い出してしまいます。この歌の双頭の鷲の紋章は、オーストリア・ハンガリーのハプスブルグ家のそれを指しています。 ロシア・ロマノフ王朝もしかり。古くはトルコで紀元前より使われていたそうです。東ローマ帝国では、双頭の鷲の図案で、東洋と西洋の支配を意味したとも。どこかで双頭の鷲の紋章を使う国家や王朝は潰える運命を背負っているのかもしれないとも感じます。
エルミタージュの話からずいぶんそれました。ここでロマノフ王朝とフランスのブルボン王朝について、栄枯盛衰について述べたいと思います。難しい話ではありません。一旅行者の私見です。
両王朝は、読者の方がご存知のように、くしくも革命によって幕を閉じました。しかし、パリ、サンクトペテルブルグのように、観光客が世界中から訪れる都市の魅力のひとつは、ルーブル、エルミタージュに見られる気の遠くなるような多くの美術品であり、他の芸術作品があるためともいえます。もちろん他の歴史的な建造物も含めてですが。
かつてマリーアントワネットは、フランス革命時に側近から「民衆がパンを食べられないと騒いでいる」と言われたところ、「お腹が減っているのであれば、チョコレート(お菓子)でも食べればいいじゃないの」と答えたそうです。
このくらいの世離れした感性がないと、これほどの芸術作品を収集できなかったと思います。この点については、ロマノフ王朝も同様でしょう。 95%以上が農奴や農民で、ほんの一握りの人たちが富を掌握していたからそこなせるわざだといっても過言ではないでしょう。国家財政の数十%を私費として使ったといわれているのですから、双方の革命も起きて当然です。
とかく後世の人をうならせるほどの芸術作品を収集するというのは、想像を超えたお金がかかることだけは事実のようです。
さて、来月号では首都モスクワについてお話していきたいと思います。
■世界遺産見てある記 ロシア編3
まずもって、11月号でエルミタージュ美術館を取り上げる予定が1ヶ月延びてしまったことをお詫びいたします。
さて本題です。サンクト・ペテルブルグ観光の最大の目玉が、エルミタージュ美術館といっても過言ではないでしょう。世界の3大美術館のひとつといわれるエルミタージュ美術館は、ロマノフ王朝の女帝「エカチェリーナ2世」によって作られました。
説明を加えると、この建物はもともと「冬の宮殿」として1762年に、エリザベータが建設を命じたものです。ですが、建設途中でエリザベータが亡くなり、完成後にこの宮殿の主となったのがエカチェリーナ2世ということです。1775年に小エルミタージュが建設され、さらに旧エルミタージュ、新エルミタージュという3つの建物を通路でつないだ形でこの美術館はなりたっています。
エルミタージュ美術館全体の大きさは、ルーブル美術館と同様とは言わないまでも、それに近いものがあります。外壁が緑と白で装飾されたその建物の美しさは、ルーブルをも凌ぐものがあります。ところで、この「エルミタージュ」という名前ですが、説明を聞いて笑ってしまいました。「エルミタージュ」の意味は、「隠れ家」。どこがっ〜、って感じです。ウサギ小屋に住んでいるといわれる日本人からすると、厭味としか思えません。
しかし考えようによっては、ロシアの広大な国土からすると、部屋数400以上敷地の1辺が直線で200m以上ぐらいもある建物でさえ「隠れ家」となってしまうのかも知れません。常人の理解を超えていることは確かです。
ここは、部屋数が400。エカチェリーナは、病的なほどの収集家であったそうです。絵画だけでも40000点を裕に越し、すべての収蔵品は300万点以上といわれています。
ダヴィンチあり、ティチアーノ、カラバッジョ、などのイタリアルネサンス美術の名品を所有し、さらに「フランダースの犬」の中で登場して有名なルーベンスを中心としたフランダース美術。ヴェラスケス、エル・グレコ、ゴヤなどのスペイン美術。レンブラントなどのオランダ絵画など、西欧美術史に登場するキラ星ように輝く作家達の作品がひしめいています。
また日本人に人気の印象派セザンヌ、ルノワール。さらにゴッホ、ゴーギャンなど。さらに、マチスやピカソ、カンディンスキーなど近世の作品も収蔵しているのだから恐れ入ります。
次号では、「冬の宮殿」としての華麗な建築物の側面から、エルミタージュを紹介していきたいと思います。
■世界遺産見てある記 ロシア編2
先月号は、サンクト・ペテルブルグ(以下:ペテルブルグ)の地名の由来を中心にお話しました。今月から写真を交えながら、ペテルブルグのみどころを紹介していきます。
まず、最初に驚いたことがあります。ロシアとはいうものの、ペテルブルグは地理的にいうとバルト海のフィンランド湾を挟んでフィンランドの首都ヘルシンキまで約250km、エストニアの首都のリガまでも同様の距離。当時のロマノフ王朝がヨーロッパの文化を色濃く漂わせている由縁を納得できます。
ネヴァ川の河口に位置した港町として発展し、歴史的に北方戦争といわれるスウェーデンとの戦争を繰り返してきました。港であり、かつ要寒として橋頭堡敵な側面を持つ都市であったといえます。事実、市内観光のひとつとして必ず立ち寄る場所として、ピョトール大帝像の「青銅の騎士」(1782年 イタリア人のファルコネが制作)があります。
この像は、前述の北方戦争に勝利した記念として、エカテリーナ2世によって建造されました。表向きはそうですが、ドイツ出身であったエカテリーナ2世が、ピョトール大帝の後継者であることを誇示するために建てさせたというのが実際の意図だそうです。台座には、「エカテリーナ2世からピョトール大帝へ」と刻まれています。
騎乗した大帝が、ヘビを押さえているのが分かります。像の一番下は波を模し、ヘビは当時のスェーデンを表しているとのこと。よほどスェーデンが憎かったのかもしれません。
来月号では、世界の3大美術館のひとつとして名高い「エルミタージュ美術館」について話を進めていきたいと思います。
■世界遺産見てある記 ロシア編1
先月ロシアに行ってきました。
出かけた動機はこうです。古都サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラードという地名のほうが身近に感じる方も多いでしょう)の世界の3大美術館といわれるエルミタージュ美術館やモスクワの赤の広場やクレムリンを見てみたい。旧共産主義の発祥の国はどういうとこかなど、どちらかというと軽いノリ。
わずか1週間の旅行ですから、サンクト・ペテルブルグとモスクワの2都市だけです。ロシアの大地はあまりにも広い。今月から数回にわたり連載いたしますが、行ってビックリ・観てびっくり。さすがに、20世紀にアメリカの資本主義と世界を2分した共産主義のリーダー国です。ロマノフ王朝以降の歴史や国土の広さ、そして改革後の国民の懐の広さを思い知らされました。
齢のせいでしょうか、旅行中どうしても「ソ連」という言葉が出てきてしまい、ちょっと口ごもるときもしばしば。この国の国旗がソ連崩壊後に変わっていると頭では理解しているものの、観光地で見かける現在の国旗(フランス国旗に似た横縞バージョン)にはどうしても違和感をもった次第です。
さて、本題に戻ります。今回のロシア旅行に対して事前に予備知識を仕入れることもなく行き当たりばったりのため、「へえー」「すごい」「そうだったのか」のオンパレード。ロシア恐るべしです。
まずは北のベネチアとも称され、かつてのロシア帝国の首都であったドイツ風の読み方のサンクト・ペテルブルグから。
アエロ・フロート(ロシア航空)を利用し、成田を出発後、日本海を渡ればロシアにウラジオストーク近辺を通過。約3時間でいちおうロシア領空に達します。しかし、モスクワまではシベリアのタイガの森や蛇行する川を窓から眺めながら、延々さらに約6時間30分。「ロシア、でかっ」って感じです。成田→モスクワ間が前述のように約10時間弱。さらに乗り換えて1時間30分でようやくサンクト・ペテルブルグに到着です。
この都市は1703年にピョートル大帝によってロシアの近代化の要として、バルト海のフィンランド湾に面した湿地に砦を築きさらに港を中心に開かれました。英語読みなら「セント・ピーターズバーグ」さしずめ、聖ペテロの町(砦・城郭)ってとこでしょうか。
この都市ほど、時の支配者に地名が翻弄されてきた場所は少ないかも知れません。1712年にモスクワからロシア帝国の首都として定められ、ロマノフ王朝が滅亡するまでその名前であり、その後第一次世界大戦時にドイツとの戦争のため、敵国風の名前はいかがなものかという意見があり、ロシア語風の「ペトログラード」に改名。さらにソビエト連邦時代に、レーニンの名前を採って「レーニングラード」。時代は移りソ連の崩壊後、最初の地名であるサンクト・ペテルブルグになり現在に至っています。
帰国後「ロシアは、涼しかったでしょう」「日本は酷暑で大変だったよ」とよく聞かれました。しかし、8月中旬のご当地は朝こそ18・9度と過ごしやすいものの、日中は29〜32度。けっして「ロシアの夏=涼しい」という構図は成り立ちません。とはいうものの、冬の寒さは夏の気温からは想像をできないものです。サンクト・ペテルブルグは北緯約60度で、サハリンのさらに上、ほとんどカムチャッカ半島の北という位置です。ですから、サンクト・ペテルブルグの中心に流れる久慈川ほど川幅があるネヴァ川が1mもの厚さで凍り、さらに港が全面氷結するというのですか驚きです。厳冬時は川の上を対岸まで歩いて渡れるので便利だとか、また車が普通に走れるというのです。
次号では、サンクト・ペテルブルグの世界遺産や歴史についてご紹介していきます。
■世界遺産見てある記 番外(ラオス編2)
前月号からの続きで贈呈式で感じたことです。
幼稚園多目的ホールの贈呈以外に、鉛筆やノート、ピアニカなども多数持っていき、子供達に一人一人渡しました。靴を履いていない子も少数いたました。そんな子供達に手渡したとき、その笑顔は満面の笑みとでもいうのでしょうか、本当にかけがえのないもので、脳裏に焼きついています。世界の最貧国といわれるラオスですが、この国では自殺者はゼロとか。
日本は確かに物質的には豊かです。一方毎年3 万人を超す自殺者が存在することも事実です。日本が高度成長で失われたものが、この国にはまだ残っていると感じました。助け合いながら生活しているって感じです。この国の義務教育は小学校5年生まで。学校は午前中で終了。児童のほとんどは午後家へ戻り畑の手伝いをするということです。3歳でも8歳でも年相応の畑仕事に従事、子供といえどもりっぱな労働力になっています。そのような理由もあってか、100人入学して30人ぐらいしか卒業できないがこの国の実態だそうです。
さらに驚いたのは、少数民族の就学のことです。始めに申し上げておきますが、日本が世界的にみても物質的に豊かであることは、ほとんど異論がないと思います。しかし、世界の中で日本ほど単一民族(ごく少数のネイティブ・ジャパニーズは存在する)・単一言語でまとまっている国は極めて稀です。このことは、日本人にとっては空気のような存在ですが、多民族そして複数の言語で生活している国は、世界で多く見られます。
前置きが長くなりなりましたが、ラオスの国情はこうです。少数民族も含めておよそ30の部族に分かれ、しかもその多くが文字を持たない部族ということです(現在のラオスの公用語はラオ語)。これは、小学校教育がどうのこうのという以前の問題です。
小学校の先生が少数民族の学校に赴任しても、そこの言葉が分からない。例えば、日本人の私がフランスの田舎に行って、フランス語も分からずに日本語を教えるようなものです。ですから、ラオ語と少数民族の言葉の辞書のようなものから作り始めなければならないことさえあるという話でした。
あらためて、日本語の歴史の素晴らしさを痛感します。文字を持つことの有無は、持たない国と比較すると歴史において1000年以上のギャップがあるとさえ感じました。
今回の旅行において、なにより日本語の価値を再認識し、また人間にとっての幸福とはなにかということを考えさせられるものでした。「幸せという文字を書いたら、その文字を書いた人の数だけ、個別の幸福の形がある」日本も良し、ラオスも良し---------------。
■世界遺産見てある記 番外(ラオス編1)
団体が寄付した幼稚園の多目的ホールあるボラティア団体の用事で先月の末にラオスに行ってきました。そのボランティア団体がラオスの首都ビエンチャンの幼稚園に多目的ホールを寄贈し、その贈呈式に参加するためです。1月末にNHKでも放映されました。
ラオスへは直行便はなく、ベトナムのハノイ経由で100人乗りぐらいの小さな飛行機にトランジットし、アンナン山脈を越え1時間ぐらいで首都ビエンチャンに着きます。今は乾季で気温は20〜23℃ぐらい。湿気は少なく過ごしやすい気候です。
観光客が料金交渉をしている輪タク(?)ラオスについては予備知識を待たずに出かけたものですから、改めておさらいを兼ねてご説明しておきます。ラオスの面積は本州とほぼ同じであり、人口は560万人ぐらいで、現在は社会主義国の一員です。首都のビエンチャンのワッタイ国際空港は、日本でいえば日本のローカル空港(松山空港や長崎空港)ほどの規模です。町の様子は何より緑が多く、ビエンチャン自体、日本の小さい市といった趣です。高層ビルはないといっても過言ではなく、車は少なくバイクや自転車での往来がほとんどです。
産業という産業はなく農業オンリーといえるでしょう。お米は三期作が可能で、訪れた時にちょうど田植えをしていました。
ラオスの生い立ちは12世紀ごろにラーンサーン(百象)王国がラオスの北部のルアン・パバーンにあったものが、18世紀に現在のビエンチャンに遷都して、その後ビエンチャン王国が興り、タイに占領され以後フランスの宗主国となり統治(1893年から1953年)となったのです。
1953年にフランスからの独立後1975年に12月にラオス王国が廃止され、アメリカが手を引き、左派化を嫌う一部の国民はタイの北部に逃れ、メコン川の東西でタイとの国境を引きました。メコン川の東側に残った国が社会主義国のラオス人民民主共和国として現在に至っているわけです。
ですからビエンチャンはラオスの首都であるにも関わらず、この国の国境線(メコン川)と接するチグハグな位置にあるわけです。フランス・アメリカなどが後から来て、勝手に国境を決めたので乾季のうちはメコン川を渡って対岸のタイへ往来することもかなり自由ということでした。そらりゃそうですよね。もともとラオ族はメコン川の一帯に住んでいたわけですから、親戚が対岸にいるのは日常の話です。
また昔、フランスの支配下に60年間属していたので高齢の方は、フランス語(公用語はラオ語)もある程度理解できるとも聞きました。
町を歩いてみると、似つかわしくない光景も目に飛び込んできます。フランスパンのバケットをサンドイッチにしたものが屋台もどきで売っているのです。食べてみるとこれがかなりいい線いってます。木曽路の宿場町でそれが売っているってとこでしょうか。「アリエナーイ」。
ビエンチャンはメコン川の夕景が最高ということで、出向きましたが帰りの飛行機の関係上メコンを眺めるだけにとどまってしまいました。来月は、ラオスの教育についてお話したいと思います。(つづく)
■世界遺産見てある記
世界遺産みてある記の記事をここしばらく休んでいます。最近は出かけていないと言うのが大きな理由のひとつです。でもまだこれから時間を見て出かけようと思っています。
ところで、なぜか「世界遺産みてある記」を題材として講演の依頼がありました。
読んでいただいている方からの要望からなのか何かわかりません。2時間も人前で話をするなど私にとってはこんな大それたことは初めての経験となります。どうしようかと思案した結果、お受けすることにしました(まぁ、なんとかなるだろうという生まれついての楽観論者なので・・・。また自分にとっても勉強になるだろうということもあって)。
お引き受けしたのはよいのですが、さてさて我に返ってみると事の重大さに改めて気づきました。何を話してよいやら、テーマが定まりません。単なる旅行の感想じゃ「綺麗、素晴らしい、感動的だ」の連発ではお話になりません。
そこで、自分で書いてきた「世界遺産みてある記」を読み返して、裏話やその場所であったエピソードなどを中心に話を進める事にしました。
面白い話になるかどうかは定かではありませんが、ご興味のある方は是非お運びのほどを。
■日立らぽーる協会「女と男のライフセミナーAコース」
1回目 11月15日(水)
「世界遺産みてある記 海外旅行のこぼれ話」 鈴木尚
2回目 11月22日(水)
「移動学習(馬頭方面) 那珂川町馬頭広重美術館、いわむらかずお絵本の丘美術館」
3回目 11月29日(水)
「江戸時代の男女の生き方」 小松徳年さん(日立市郷土博物館協議会委員)
4回目 12月6日(水)
「吉田正と昭和歌謡史」 半井進さん(吉田正音楽記念館主任)
※料金:2,700円(1〜4回の受講料と11月22日のバス旅行代含む)
※開催時間:午後1時30分〜3時30分(2回目の移動学習を除く)
※場所:日立女性センター(らぽーる協会)3階講習室
お問い合わせ:日立らぽーる協会(日立市鮎川町1-1-10)
■世界遺産見てある記
この記事が届く頃には、「ダヴィンチ・コード」の映画が封切りになっていると思います。全世界で5000万部も売れて話題のベストセラーです。一言でいうと、聖杯を探し求める話の知的インディージョンーズともいえるでしょうか。
ダヴィンチの名画が登場したり、ルーヴル美術館が詳細に記述されているなど、それらが知的謎解きの題材になっているのですから、美術ファンにとっては興味を増幅させるのと同時にのめり込んでしまうこと 請け合いです。
有名なダヴィンチの名画「最後の晩餐」のある教会について、ちょっと一言。 この絵についての解説は、いろいろな本やテレビで行なっているので差し控えることにします。この絵は、ミラノのサンタマリア・デレ・グラッエ教会にあります。私は、縁があって修復中と、修復後の2回訪れる機会に恵まれました。この教会の食堂の正面の壁画です。
旅行で行くと、ミラノでも一・二の観光スポットですから、朝一番に朝食もそうそうにしてこの教会の開館前に並びます。当然、全世界から同じ目的で来ている人も多いわけですから、到着時間がちょっとでも外れると1時間待ちってことになります。
なぜかって、それは入場制限をしているため。記憶が定かではありませんが、20人ぐらいを1組としてそのグループがでるまで、次のグループを待たしておくからです。教会にはいると、エアーカーテンがあり、それを通って初めてご対面となるわけです。ひとグループ10〜15分ぐらいだったでしょうか。
正面の壁画が、最後の晩餐でその対面にも壁画があるのです。作者はちょっと失念してしまいました。最後の晩餐は、ダヴィンチが実験的に新しい技法で描いたので、保存状態がよくありません。室内の温度を一定に保つために入場制限があるということです。
2度目にミラノに訪れたときに、もともとダヴィンチファンである私は、この教会から徒歩30分ぐらいのところにある「レオナルド・ダヴィンチ国立科学博物館」に行きました。 ダヴィンチのコーナーでは、有名な鏡文字で書かれたノートやそれをもとに実際に制作した兵器や飛行装置(ヘリコプター?)の模型などが展示してあります。確か午後にいったのですが、がらがらでした。一人でいったものですから記念に写真を撮ってもらおうと他の来館者をやっと探してなんとか撮ってもらいました。今ミラノに行ったら、ダヴィンチ・コードの影響で必ず回る観光スポットのひとつになっているかもしれません。
オックスフォード大学の中で一番美しいカレッジのキャンパス。大学の敷地内に、このようなボート場が数箇所あります。日本の大学のキャンパスとは大違い。
オックスフォードの街の中で見かけたもの。ビートルの上に「レッドブル」という飲み物(コーラのような)の看板が乗せてある。日本じゃ車検が通らないでしょう。