■ボギー・ジョーンズの独り言 パリの国立ピカソ美術館

ピカソ美術館の館内
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東京の国立新美術館と同じく六本木にあるサントリー美術館でピカソ展が開催されていました(12月14日まで)。今秋の「フェルメール展」と同様に大変な人気でした。とくに同じ画家の絵を同時期に2か所で展覧会を開くのは稀有なことではないでしょうか。さて、このピカソ展の絵はパリの旧貴族の館が立ち並ぶマレ地区にあるパリ・国立美術館に収蔵されているものです。先月号で紹介したモネのジベルニーのアトリエを訪れた翌日にここを訪ねました。今年6月末のころには、ちょうど改修工事が始まっており、本来貴族の館であるこの美術館の建物の全容は工事用の覆いに隠れて見ることができずじまい。午後の拝観でしたが、人はまばらで日本の美術館の様子とはかなり異なります。

数年前に訪れたルーブル美術館もそうですが、なにより驚かされるのが写真にあるようにピカソの絵を前にスケッチ?模写ができることです。日本ではまず考えられません。日本でも20か所以上の美術館に行ったことがありますが、その場でスケッチブックを持った学生がうろうろしている光景には、ついぞ遭遇したことがありません。

日本でも美術館にそれなりの申請をすれば可能なものなのでしょうか。

熱心にスケッチする小学生
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話は戻ります。小学生の高学年とおぼしき児童20名ぐらいが、ここの学芸員らしき人と引率の先生と思われる人といっしょに説明を聞きいっていました。こちらも興味があるので少しその場に留まり、その後どうするのかと注視していました。説明を聞き終わると、3・4名のグループに分かれて自分の好きな絵の前にしゃがみこみ(あぐらをかいている子もいる)熱心に模写をはじめました。学芸委員に質問をしている子もいましたが、なにでこちらは異邦人。悲しいかな内容はわかりません。

日本の美術館では、ピカソ展やフェルメール、ダビンチ展などの有名な画家のものであれば、係員が必ずこう言います「立ち止まらずにお進みください」。パンダが来た当時の上野動物園のようなありさまです。かたや、紅葉時期の京都東福寺の渡り廊下のような状態といっても過言ではないでしょう。日本の美術館では絵を鑑賞するというよりも「拝んできた」という状態に近いともいえます。画家の絵のタッチもみられずじまいってことになりかねません。ややもすると、混んでいるためと足が疲れたとかで、数点の絵を見ずにショートカットということさえあり得ます。

今回日本で開催されたピカソ展の入場料の一部は、現地のピカソ美術館の改修費用になっているのは当然でしょう。もともと改修工事の予算に計上されているのでは。

ロシアのサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館も冬になると。収蔵物が全世界に出稼ぎにいくようです。たしかに厳冬のロシア、かつ陽が短い時期にわざわざ訪ねる人はごくわずかであることもその大きな要因といえます。

話はそれましたが、本物をその場の環境でスケッチできることは本当に羨ましい限りです。たしかパリの美術館は、小中学生は料金がタダだったのでは。子供に対する美術・芸術の接点の姿勢が違います。


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フランスでは、美術に興味がある子どもを育てる「絵」が描けています。

■ボギー・ジョーンズの独り言 パリには自転車がよく似合う

最近、地方公共団体のレンタサイクルのニュースを目にすることがあります。ただし以前あった駅の置き傘と同じように戻ってこないということが多く、なかなか行政の計画どおりにはいかないのが実情のようです。

今回パリでおもしろいレンタサイクルに出会いました。名前は「べリブ」。市内を歩いているとそこここで、旅行客と思しき人たちがべリブ(日本メーカーのシマノ製3段変速ギア)に乗って楽しそうにこいで観光スポットめぐりをしています。ちょっと車体がゴツイ感じはするものの、ボディーカラーはさすがです。パリのセンスを感じるといいったら言い過ぎでしょうか。日本のそれとなると、街の雰囲気を壊す?盗難にあった場合に目立つような色使いをするのが常ではないでしょうか。パリのそれは、薄茶というかベージュ系の落ち着いた色合いです。パリの街並みにフィットしています。

パリの街なかのベリブ駐輪場
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パリ市内のランドマーク的な場所1500ヵ所に、約2万台が敷設されています。レンタルの方法はこういう具合。1日1ユーロ、1週間5ユーロ、もしくは年間29ユーロの3種類。1年間の場合は、必要申請書を送付して登録。1日・1週間単位の場合は、路上のカード決済機で事前登録料150ユーロの引き落としの承諾した上で、カードでチケットを購入。ただしまるでただというわけではありません。最初の30分は無料ですが、その後の30分が1ユーロ、つぎ30分が2ユーロ、その後は30分ごとに4ユーロが加算されしくみ。一見高いようですが、30分ごとに借りなおせば延長料金は発生しないのがうれしい。レンタル中は市内の自転車の置き場所に返却すれば乗り捨ても可、再度の乗り出しもOKというわけ。じつに合理的です。 パリを訪れるたびに「自転車があればこれほど歩かなくていいし、早く回れるのに」と思ったものでした。このべリブは昨年の7月に導入されました。半年で20万件を見込んでスタートしましたが、1年間で2,000万件を超え上々の滑り出しといえます。

日本でも京都や奈良、その他の観光地や東京や大阪などの大都市にも設置をすれば、多くの利用者が見込めるのではないでしょうか。世界を揚げてエコブームのなか、CO2の削減に寄与するのも請け合いです。オリンピック招致運動の一環としても、どうですかね。石原都知事。

■ボギー・ジョーンズの独り言 オランジェリー美術館

+写真クリックで拡大パリの美術館の主役がルーブル美術館であることは異論のないところでしょう。つぎに旧オルセー駅を利用したオルセー美術館と続き、3番手にあげられるものが、今回紹介するコンコルド広場の隣にあるオランジェリー美術館ともいえます。

このビッグ3は半径1〜2km以内にあり、徒歩で充分歩き回れる距離です。しかし、パリを訪れてもオランジェリーに行ったという人はあまり多くはないはず。なぜなら、1999年から約7年間にわたり改装中であったためです。私も3度目のパリでやっと念願が叶い訪れることができました。

+写真クリックで拡大ここはモネのためにある美術館といっても過言ではなく、前号でご紹介したジベルニーの庭の「睡蓮」があることで世界中に名が知れわたっています。導入部の建物と2つの楕円形の建物からなり、それぞれ「睡蓮」が壁一面に描かれています。その部屋は日立シビックセンターの1階ホールを直径として、楕円形に切り取ったぐらいの大きさといえるかと思います。2部屋が直列に並んでおり、各部屋の中心の椅子に座って見渡すと、360度の視界で「睡蓮」を鑑賞できます。これは感動ものです。内装は白で統一され、楕円形に開いた天井の窓から自然光が差し込む構造になっています。しかし直接光を取り込むのではなく、採光部の真下に絹かどうか定かではありませんが、白い布が天幕上に張り巡らされ、淡い光となって部屋全体に降り注ぐ仕掛けとなっています。絵が最も美しく見える最高のシュチュエーションといえます。

+写真クリックで拡大オランジェリーは、モネの絵だけではありません。1970年代の画商であり美術収集家であったポール・ギョームのコレクションが地下通路の両側に展示してあります。近代西洋美術史のビックネ−ムであるルノワール、セザンヌ、ピカソ、マチス、モディリアニ、ユトリロ、ルソーなどの絵が無造作にあるのですから驚き。これも必見です。

今頃のパリは、プラタナス(モミジバスズカケノキ)の落ち葉の時期でしょうか。襟をちょっと立てて、落ち葉の感触を楽しんで歩く、パリらしいパリがそこにあります。

■ボギー・ジョーンズの独り言 ジベルニーのモネの庭

7月号でご案内したとおり、今月はパリを離れて、睡蓮の池で有名なモネの家をご紹介します。

印象派の大御所、クロード・モネが43歳から晩年にかけて過ごしたジベルニーは、パリから北西70km、高速を利用して約1時間半。緑多き自然に囲まれた本当に小さな美しい村です。世界的に有名なモネの「睡蓮」は、このジベルニーの家にある睡蓮の咲く池を描いたものです。草木の生い茂った庭園、色鮮やかな花々は、NHKで有名になった、ターシャ・テューダーの庭と同じ空気が流れているように感じました。年月をかけ、慈しんで育てた庭といえます。

モネの庭は、道路を隔てて大きく2つに分かれ、睡蓮の池を中心とした回遊式の庭園と、自宅アトリエの前に花をメインにしたものがあります。

訪れたときは午前10時過ぎに着いたため、寝坊の睡蓮の花がまばらに咲いている状況でした。モネの連作で有名な睡蓮の池を巡ってみると、絵にあるように太鼓橋を遠景に臨み、柳の木が枝垂れかかって日本庭園の雰囲気を醸し出しています。欧米の庭園に多くみられるような、整然したシンメトリーのそれではなく、自然のまま、あるがままに造園を試みた結実ともいえます。また日本庭園と同様に、珍しく借景を利用していることも付け加えておきたいと思います。

睡蓮の庭を散策が終わり、道路の下を横断するトンネルを抜けると、モネの自宅アトリエの前に広がるフランス風の庭にでます。バラやパンジー、チューリップ、サルビアなど花を中心とした水彩絵の具で描いたような、かわいい女性的な庭です。なだらかな傾斜地を利用して作られ、そのトップにモネが愛したおよそ60坪強の2階建てのメルヘンチックな自宅があります。

自宅に入ってびっくり。日本の浮世絵が各部屋の壁にところ狭しと飾られています。ご存知のように、印象派の画家は日本の北斎や広重などの浮世絵に対して興味を持っていました。ゴッホが浮世絵を模写をしたものもあります。浮世絵に見られる大胆な構図などは欧米の画家達にはとても新鮮に映ったことでしょう。

モネの自宅を出ると、どこの観光地でもあるように、お土産売り場お決まりのように設えてあります。モネの庭を見てきたばかりの感動が冷めやらぬせいか、睡蓮の柄をモチーフとしたショールやコーヒーカップ、モネの絵葉書やポスターなどがよく売れていました。

次号では、モネの睡蓮の絵で有名なパリのオランジェリー美術館と、11月に日本で公開される予定の国立ピカソ美術館、ポンピドー美術館についてご紹介したいと思います。

■ボギー・ジョーンズの独り言 08年7・8月
パリ・ロンドン・スコットランド旅行記 No.1

長寿番組として有名な「世界の車窓から」という番組を、知らない人は少ないでしょう。朝日新聞出版社から、昨年秋に番組の収録で使ったものをDVDとして販売しています。人気です。なぜこんな書き出しかといえば、先月の20日過ぎから、10日間(パリ、ロンドン、ヨーク、セント・アンドリュース)の個人旅行に出かけてきたからです。

成田、ロンドン・ヒースロー間と帰国時のエジンバラ→ロンドン・ヒースロー以外は、すべて地下鉄や電車の移動で、こんなに電車や地下鉄を利用したのは今回が初めてです。驚きの連続といったら大げさかもしれませんが、日本の常識では計り知れないことが、藪から棒におきます。少しオーバーかもしれません。「日本の常識は、世界の非常識」という言葉が、電光掲示板の文字のように脳裏をかすめます。

今月から、数回に分けて今回の旅行のエピソードやハプニング等をお伝えしていきます。海外旅行の参考の一助になれば幸いです。

6月21日に、バージン・アトランテック航空900便で一路ヒースローへ。成田11時発およそ12時間の空の旅を経て、同日の午後3時着(日本とロンドンの時差は−8時間)。よく12時間も飛行機に乗っていられるねと言われることがあります。今回は、フライト・アテンダントの向かいの(足が伸ばせる)エコノミー席を取ることができました。ただし有料。15000円也。

痛い出費ですが、隣の人がトイレや用事で立つ時に気兼ねすることもないので「まあ、いいか」と。私は、とくに長いフライト時間の海外旅行の場合、数錠の睡眠誘導剤とアリナミンを携帯します。睡眠誘導剤は、もちろん時差を克服するため。一回目の食事を済ました後に、ビールなどを飲みながら飲むと5・6時間は熟睡できます。あとは、機内サービスの映画を2・3本観て、機内食をもう一度とれば、時間を持て余すこともなく到着となるわけです。ちなみにアリナミンは、旅行中に体力が落ちてきたときに服用すると効果あり。

到着した後、迎えに来ていた知人と合流し、荷物を持って白と黄色にカラーリングされたユーロスター(ロンドン〜パリ間の国際列車)に乗るために地下鉄に乗り換えます。まずここでロンドンの物価の高さに驚かされます。初乗りが4ポンド(約900円)で、割高なのは否めません。

ユーロスター改札口イギリスの地下鉄車両は、日本のものと比べて車両の幅はやや狭く、逆に背の高い方が多いお国柄を反映してか天井は高くできています。ユーロスターは、最近までロンドン市内のウォータールー駅からの接続でした。現在では、ロンドンからケンブリッジやエジンバラ方向に伸びる北の玄関口となるキングス・クロス駅に隣接するリニューアルしたセント・パンクラス駅が出発点となります。

プラットホーム 9 3/4到着後、ユーロスターに乗車するために税関を通り、パスポートに押印。さすが、国際列車。15年ほど前に、パリ−ジュネーブ間の国際列車に乗りましたが、スイスでの税関の存在はあまり気になりませんでした。もっとも当時は、団体旅行ですべて添乗員さんが手配・手続きをしてくれたためです。ここでちょっと情報です。キングス・クロス駅は、ハリー・ポッターシリーズの撮影で使われた場所としても有名です。ハリーが、ホグワーツ魔法学校に入学の際に、9と3/4ホームから列車に乗ったのを覚えている方も多いでしょう。その駅がここ。実際に、観光客用に写真撮影用のホームが用意してあります。

余談はともかく、イギリス時間の午後7時発に乗りパリを目指します。ロンドンの日没は、当時午後9時半ごろで、まだまだ日が高い?状況です。ロンドン出発後、20分ぐらいで田園風景が続きます。その後、ドーバー海峡を海底トンネルでくぐり抜け、列車はフランスのノルマンデイ地方に顔を出します。

しかし、牧草地が広がる平原であることには、なんら変わりません。しいて言うと、世界対応の携帯電話のキャリア(日本のNTTのようなもの)が、イギリスのものからフランスに変わったぐらい。本当に同じ風景がただただ続きます。あとは、送電線の柱のスタイルが少し違うかなと思うぐらい。遠くに目をやれば、草原には団子虫。ではありません。丸くちょっと黒い羊たちが、草を食んでいます。のどかな風景です。北海道のローカル線の車窓と近しいものがあるかもしれません。

飛行機でロンドンーパリ間を飛ぶとすると、搭乗手続きや荷物の出し入れなどで数時間を取られるのは必定。また、ヒースロー〜ロンドン市内、ドゴール空港〜パリ市内までの移動時間を考えると、ユーロスターはの利便性が分かろうというもの。たとえばパリのホテルで連泊して重い荷物を置いておき、1泊・2泊の軽装で、ロンドン観光に充てるなどというときはお勧めです。もちろん早いスタートなら、日帰りも可能でしょう。

次回は、パリ郊外のモネの自宅やミレーのアトリエなどをご紹介いたします。

■ボギー・ジョーンズの独り言 08年6月

マイコン、パーコン、パソコン、---------

パソコンと私の出会いはおよそ27年前。はや四半世紀を過ぎてしまいました。大学卒業後、都内の新聞社に入社。そこでパソコンと出会いました。当時はまだパソコンの黎明期で、現在のパソコンという言葉さえなかった時期でした。今思えば、とてつもなく幼稚な機械でした。CPUは8ビット。現在は32ビット、64ビットなどもあるくらいです。

8ビット機は、数字とアルファベットと記号ぐらいしか表示できず、CRT(パソコンの画面)もモニターと呼び、当然モノクロでした。今のように四角で平面の画面ではありません。そのころはやったインベーダーゲームを思い出してもらえればお分かりかと思います。今では出荷時についてくるマウスさえなかった気がします。たしか矢印キーで対応していたような記憶があります。

言語はおもにBASIC(ベーシック)。自分でプログラミングするタイプで、マニュアルが電話帳ぐらい厚く、難解な説明文で書かれており、砂を噛むような味気ないものでした。

補助記憶装置は、フロッピーが主流。最初は8インチのドライブで、およそ昔のLPレコードぐらいの大きさ。ドライブディスクの大きさは、今のディスクトップパソコンの本体ぐらいの大きさでした。 最近のユーザーは、8インチを知らないのは当たり前ですが、5インチのフロッピーがあったことさえ分からない人が多数でしょう

。3.5インチさえ、最近は使わなくなってしまいました。そもそもフロッピーとは、うすくヒラヒラしたものという意味です。3.5インチはケースに入っていますが、8インチ、5インチのものは、本当に頼り無いもので、昔のソノシート(分かるかな?)に保護の紙のジャケットを付けたようなものでした。

数年たって、パソコンブームの火付け役となったのが、NECのPC-9800シリーズ。 IBM、富士通、日立などの大型コンピュータメーカーの歩むコンピュータの小型化の設計思想とは異なり、パソコンをパーソナルユーズの側面から設計したものでした。あの頃でも、30万円ぐらいした記憶があります。これが、日本のパソコンブームの第一時期といえると思います。MS-DOS2.0が使われていました。

MS-DOSとは、マイクロソフト・ディスク・オペレーテング・システムの頭文字をとったもので、今の米国(マイクロスフト社)のビル・ゲイツが世に出したものです。その系譜が綿々と続き、MS-DOS4.0やウィンドウズ95、98、me、XP、VISTAとなっているわけです。  

PC-98シリーズがでたころから、パソコンのソフトも徐々に増えていきました。今では少数派になったワープロソフト「一太郎」、表計算の「スーパーカルク」、「ロータス1-2-3」、「マルチプラン」、データベース型の「d-baseU」などが一世風靡でした。まだワードやエクセルなどは、形もなかったと思います。誰も知っているエクセルは、当時アップルコンピュータのパソコン上で動いていたはずです。記憶が正しければ、エクセルはマイクロソフト社が買い取り、自社ブランド化したものです。  

ビル・ゲイツさんには思い出があります。記者時代にマイクロソフト・ジャパンの発表会があり、取材席から会見を聞いていたところ、彼の足元に目をやると右と左が違う靴下を履いていました。当時は、まだ新進気鋭の若手元祖IT社長です。「天才という人は、スタイルには無頓着なのだなあ」と妙に感心しました。  

今パソコンでこの文章を書いて(打って?)いますが、時代流れが速いと感じます。ついていくのがやっとです。

■ボギー・ジョーンズの独り言 08年5月

読者の皆さん、名取美和さんという方をご存知でしょうか。先月、ある団体の講演会で名取さんのお話を聞くチャンスに恵まれました。感動する内容でした。最近では徹子の部屋や、TVドキュメンタリー等でも放映される機会も多く、記憶に残っている方も多いことと思います。

講演は、1時間くらいでした。その内容をすべてお伝えすることは出来ませんし、紙面の都合もありますので、名取さんの言葉を中心に記したいと思います。 現在名取さん(昭和21年生まれ・東京)は、タイ北部のチェンマイで1999年からHIVに感染した両親から生まれた孤児達30人を孤児院(バーン・ロム・サイ=ガジュマルの木の下の家の意)を作り、運営している方です。

では簡単に、プロフィールを紹介していきましょう。慶応女子高在学中、16歳でドイツ(ミュンヘン)に職業デザインの勉強のために留学。以降、語学力を生かして海外を転々としながら二度の結婚、離婚をし、娘一人を育てながら、生活してきたということです。本人の言葉によると、「51歳の時にタイのチェンマイに観光目的で行くまでは、それまでの人生は好き勝手に生きてきた」とも。

--50を超えると、立ち止まって残りの人生をどうしようかと考える。そんな時に、HIV感染の孤児達に会って、人生が180度変わった。見て見ぬ振りができなかった。

--まあ、本当に新しい病気ですし、いろいろな意味で前例がない。うちの子供たちは、生まれたときから母子感染していた。その子達が初めて大人になり、エイズ感染孤児の第一世代だと思います。まず、本当に彼らがスムーズに社会に溶け込んでくれれば、次の世代に続く子供達も、社会に出やすくなるのではと思っています。

--開設当初の1999年には、HIVに対する特別な薬はなく、母子感染した子供達の平均寿命は5歳といわれていました。ホームでも2年半の間に、10人の子供達が発症し命を落としていったのです。しかし最近はHIVの発症を抑える薬の開発も進み、子供達は確実に成長できるようになりました。

--私達はもちろん寄付も大事ですし、お金がなければ生活できません。ですが、親が働いている姿を子供に見せたい、そうじゃないと寄付だけだと、どこからかお金がきてだけでは、経済観念も植え付けられないのではと思っています。そのために家業として、みんなで洋服を作り、染物や小物を作っています。今ゲストハウスを作っています。そこにお客様に泊まっていただいて、将来は、バーン・ロム・サイの子供達がきちっと自立できるような職場も作っていきたいと思っています。

--1997年の開設当初から、ともかくHIVに子供達が感染していても、ポジティブに生きようよ。明るく元気に生きましょうっということをテーマにやってきたし、今でも私達はそのように生活しています。でもまだ社会がそれほどポジティブではない。HIVの問題だけではなくて、なにか自分が気づいたこと、変だなと思うことをしっかり考えて、行動を起こしてくれる。そういう社会になってくれれば、私もこれをやっていて嬉しいなと。子供達も、そういうポジティブな社会が迎えてくれる。それは、夢のようですけれども、今私が願っている最大のことです。

--なにか誰かの役に立つことが、こんなに楽しく生きられるということ、それが心地よく快いものに導いてくれるということに気づきました。あの子達と出会えたことに心から感謝をしています。

■ボギー・ジョーンズの独り言「新聞の文字拡大の裏舞台」 08年4月

先月の31日から、朝日新聞の文字が大きくなりました。いかがでしょうか?それまで、15段12次詰めであったものを12段13文字にし、かなり見やすくなったのではと思います。いまふうに言うと、目に優しい。デカ文字ってわけです。

まず皮切りに毎日新聞が、文字を大きくしました。これは、それに追随する朝日、読売とは異なり、15段の段数はそのままにし、1段あたりの文字数を10文字にするという方法です。朝日、読売は段数そのものから根本的に見直し、12段に変更。1段に詰め込む文字数にも手を入れたというわけです。各社ともそうですが、現在の新聞の文字と改定前のものとでは、文字のスタイルが違っています。常に読みやすい文字を追求し続けています。

文字についてはこんな例があります。昔の誘拐事件などで、筆跡を悟られないようにするため、新聞の見出しを切り抜いて犯行文を作成し、警察に送りつけるということがありました。しかし、その切抜きから新聞の種類や日付が証拠となる。このように、もともと各社各様、文字のスタイルは異なります。新聞を変えると、微妙に読みづらく感じるのは、文字のスタイルに負うことが多いとさえ言われています。

段数の変更の影響は、一目瞭然です。記事の写真をご覧になってください。段数に合わせて写真を掲載するため、写真が少し大きく取り上げられているのが分かります。また、各社の一面の看板記事(論説?)などにも、その影響がもろに出ています。朝日の「天声人語」、読売の「編集手帳」、毎日の「余禄」などのスペースが各社ごとに違ってきました。当初、私も天声人語を読むのに少し違和感がありました。それより書き手が苦労しているのではと想像します。なぜかといえば、1行あたりの文字数によって、言葉の使い方やリズム的なものに気遣いが必要になるからです。さらには、「時時刻刻」「ひと」「ニュースがわからん」などの囲み記事や、常設記事のタイトルの図案の変更なども同様に変更が余儀なくされます。朝日新聞では地方版のそれも合わせると、じつに2千カットくらいの量とも聞きました。

このように新聞のレイアウトの変更は、銀行の金利の上げ下げの決断以上に社を挙げて取り組まなければならない大仕事となります。 読者ニーズにお応えする紙面づくりの舞台裏を、少しでもお分かりいただければ幸いです。

■ボギー・ジョーンズの独り言 07年11月

今月の3日に「続3丁目の夕日」を観てきました。1作目のインパクトがあっただけにちょっとマイナスなイメージでした。いや、観客の慣れでしょうかね。内容は、それはそれであの「昭和のほのぼの路線」が全編に貫かれヨカッタです。

映画の中で、洗濯機にローラー型の絞り機がついているものが出てきました。「おお、うちにもあった、あった」。遊んでいて、指を挟んだ記憶がよみがえりました。 冷蔵庫は、1作目では氷を入れて使うもの(氷冷庫?)が登場しましたが、今回はバージョンアップして電気冷蔵庫が使用されていました。どちらも個人的に懐かしく、氷を入れて使うものは、今でも母に言われて氷を「一貫目買ってきて」と言われた覚えがあります。

この映画の時代から約40年の現在まで、便利な生活こそが金科玉条のごとく最優先されてきました。昭和32年生まれの私などは、まさにこの申し子といえるでしょう。

最近この40年間で便利優先のために、抹殺されて失ったものを考えてしまいます。「消費は美徳」といわれた高度成長期=昭和40〜50年代。そしてバブルの時代へ。平成に入ってからのバブルの終焉、経済の低迷時代への突入と続きます。

確かに、どの家庭にも車やエアコンがあり、家電製品が溢れ、パソコン、携帯電話を持っているなど、物質的にはまさにこの世の春かもしれません。しかし、これらを手に入れるために、なにを犠牲にしてきたでしょう。その頃は専業主婦も多かったはず。今では、パートで奥さんが働いている家庭はどのくらいでしょう。今では当たり前になっています。家や車のローンのため?教育費のため?生活費のため?自分の周りの、家電や機械を見てなんのためだったのだろうと、ため息が出てしまいます。

便利さの追求を止めてはいけないのでしょうか。もう、現在あるもので充分でしょう。それが無ければ、本当に生活できませんか?もう、マスコミのCMや報道に踊らされることは止めましょう。新しいものを買えば、産業廃棄物としてさらに、ゴミを増やします。 最近「メタボリック・シンドローム」が話題になっていますが、日本人の大多数が不必要な家電や器具を購入し、生活自体が、「メタボ」になっているとはいえないでしょうか(大いなる自戒を含めて)。

冷静に考えると、「3丁目の夕日」の時代以降、日本人は消費経最優先という釦の掛け違えが始まっていたのかもしれません。

■ボギー・ジョーンズの独り言 07年6月

東国原知事(そのまんま東)の就任で、国内知名度アップ・ナンバーワンの県ともいえる宮崎県に行ってきました。

飛行場の出口を降りてびっくり。オレンジ色のはっぴを着た東国原知事の立て看板がお出迎え。観光客のおばさんたちは、「ワーひがしだ〜」「写真、写真」。周りで聞いているとほとんど意味不明な言葉を発しながら立て看板とツーショット。不思議な光景です。

当時、今で言う団塊の世代の新婚旅行のメッカであった宮崎県ですが、昭和50年以降は新婚旅行客も激減し、観光ホテルも軒並み閉鎖を余儀なくされたということです。

フェニックスやトム・ワトソンなどのゴルフコースに隣接した場所に、一発逆転を狙って市内の海岸線沿いにシーガイヤなどのリゾート施設を建設し、長崎県のハウステンボスに対抗しようとしました。確かに一時的には観光客の足も戻りましたが、結局はいまひとつという具合。事実、シーガイヤホテルは現在ではシェラトンホテルに買収されてしまいました。

地元宮崎では、東国原知事の人気は絶大です。宮崎の救世主的存在ともいえそうです。ツアーの内容おいてもしかり。テレビでも紹介されたように、県庁を観に行こう!!生 東国原知事に会えるかも!!てなぐあいです。

いたるところで、知事のキャラクター入りお土産がそこかしこにおいてあります。タレント性を十二分に生かして、宮崎県をアピールしています。今では茨城県の知事の名前を分からなくても、宮崎県の知事は分かるという人が多いのではないでしょうか(橋本知事すいません)。

人気先行の知事ですが、議会も知事が就任した当時と異なり、知事派に傾いているようだと、地元の新聞記者がいっておりました。「ブームに乗り遅れるな」といったところでしょうか。これからの宮崎県の動向に注目がわくところです。

最後に、宮崎の地元の人がお勧めの隠れたうまいものに、「辛麺」があります。簡単にいうと、坦坦麺みたいものです。ここから違います。辛さのチョイスができます。1辛から25辛まであり、麺に特長があり、韓国の冷麺の麺のような細くて腰のあるものです。スープは濃厚にしてあっさり系。かき玉風になったスープで、辛さを卵の風味がまろやかに包みこんでいます。ちなみに私は、辛党なので5辛を注文しました。10辛ぐらいまではいけそうです。いちど宮崎にお出かけの際には、ご賞味ください。

■ボギー・ジョーンズの独り言 07年5月

5月14日の月曜日、上野の国立博物館で開催されている「レオナルド・ダ・ヴィンチ ― 天才の実像」を観てきました。ダ・ヴィンチが20代半ばで描いた、そうあの有名な「受胎告知」をメインとし、ダ・ヴィンチノート(手稿)をもとにダ・ヴィンチの各分野での研究を紹介した展覧会です。催しの看板の「受胎告知」は大天使ガブリエルがマリアにキリストを身ごもったことを伝えていることをモチーフにした絵です。

フィレンチェ(イタリア)のウフィツィ美術館で鑑賞したとき以来8年ぶりのご対面で、「久しぶり、元気だった」と声を掛けたくなるような、私的には日本で再会できること自体、違った感動がありました。

さて今回の展覧会で感じたことをひとつ。

天才の画家と呼ばれるダ・ヴィンチは、絵画という世間一般の人に分りやすいような発表する方法をとっただけで、科学者・物理学者・博物学者としての「真理のあくなき探求者」というのが本来の姿だったと確信しました。そのわけは、こうです。

ダ・ヴィンチが活躍したルネサンス時代は、イタリアに限らず日本でも中国においてもまだまだ地球上の識字率は低く、また同時に印刷技術もまだおぼつかない時でした。当時の布教方法を例に取れば、キリスト教に限らず仏教もその経典や神の所業を民衆に説く方法として、多くの教会や寺院に視覚的に理解しやすい壁画や宗教画等が飾られたことは紛れもない事実です。

ダ・ヴィンチ自身の研究は、当時の人々が理解する限度をはるかに超えていたと思います。展示されているダ・ヴィンチの幾何学的原理に 基づく人体や「かたち」の均衡、人間の動きと力、空気の動きと力、心の動き、目を視るための装置としての研究など、全てが数値的あるいは観察に基づくものからなりたっています。これらの膨大なかつ緻密・精密な資料をみると、ダ・ヴィンチ自身が神に近い完璧主義者だったためと考えることもできます。これらの研究も宗教などと同様に、理解しやすい形式で見せる方法の集大成が絵画だったと思われてなりません。空気遠近法、スフマート技法、1点消失遠近法などダ・ヴィンチならではの絵画技法は、説明よりも見せた方が早いという思考回路によるのではとも思います。

余談ですが膨大な研究を書き留めたダ・ヴィンチのノートを見ると、その時代にパソコンがあったらダ・ヴィンチもさぞ研究が進んで喜んだであろうと想像したしだい。絵画を研究成果の発露と考えを飛躍させれば、3次元に止まらずさらにダ・ヴィンチは4次元という時間的な経過も絵画に写しこみたかったはず。現代に生きていればCGクリエイターか、映画に最大の興味を示したのではと思うのは私だけでしょうか。

最後に、多賀駅発のバスツアーで同乗された方、くれぐれもお約束を忘れずに。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ ― 天才の実像」東京国立博物館:6月17日まで

■ボギー・ジョーンズの独り言 07年4月

黒沢止幾(とき)という江戸末期から明治にかけて生きた女性をご存知でしょうか。茨城県桂村の出身で、日本で初めて女性教師第1号になった人です。

昨年の11月ごろの茨城新聞にその偉業(類まれな行動力)について書かれた記事を偶然見つけ、興味を持ちました。その後、黒沢ときのことが頭の中から消えようとしていた折、多賀の日立市ラポール協会(旧日立市婦人の家)で、小松徳年氏による止幾の講演があるというので迷わず参加しました。小松先生の講演の内容をもとに止幾を紹介していきます。

止幾は文化3年(1806年)に錫高野村(旧東茨城郡桂村)の修験者の娘として生まれ、19歳で旧金砂郷村に嫁ぎ、26歳で夫と死別、二人の子供を連れて実家に戻りました。以後20年余にわたり、県内を中心として近県まで足をのばし、櫛や簪(かんざし)などの小間物を行商して生計を立てていたそうです。

行商の日々の中、各地の知識人とも交友を結び、余暇には俳諧・狂歌・和歌・漢詩を学んでいたということですが、修験道の家に育ったせいもあるのでしょうか、当時の田舎の女性としては珍しく読み・書き・算盤ができたようです。これは想像ですが、止幾本人も知識欲がかなり旺盛だったのではないでしょうか。

以後、止幾46歳(1851年)で群馬県の草津で初めて門人をとり、翌年には塩子村(旧西茨城郡七会村)で寺子屋を開きました。ここまでは、とくに後世に名を残すという人生ではありません。

話は変わりますが、止幾が生きた時代背景はこうです。

1853年(嘉永6年)の黒船の来航後、幕府はアメリカに押し切られた形で日米和親条約を結び、これに対して国内で賛否両論が沸き起こることとなり、一挙に政治が不安定になりました。時代も嘉永から安政と移り、大事件が勃発しました。時の老中井伊直弼が幕府の政治に異を唱えるものを処罰した安政の大獄(1858〜59年)です。そのときに処罰の対象のおもだった面々は、長州藩の吉田松陰(死罪)や越前藩の橋本左内(死罪)、攘夷論を唱えていた水戸藩の徳川斉昭(永蟄居)や慶篤(差し控え)、家老安島帯刀(切腹)らでした。

日本史の教科書にも必ず出てくる安政の大獄と田舎の寺子屋の女性教師との接点がどこであるのか、次回に述べたいと思います。

■ボギー・ジョーンズの独り言 07年3月

「ドリームガールズ」。

久しぶりに本物のエンターテーメントの映画を観た。私的には、このジャンルにおいて「サウンド オブ ミュージック」がナンバー1。次にこの映画。第3位として「ウェストサイド ストーリー」という順位をつけたい。

このような映画は、日本では絶対作り得ない映画といっても過言ではないだろう。なぜなら、今年のアカデミー賞助演女優賞を受賞したジェニファー・ケイト・ハドソンの歌唱力に肩を並べるような歌手が、日本にいないからだ。

演技力もさることながら、まずその歌声に圧倒される。黒人特有のソウルフルでパワフルな歌声に、まるで彼女自身が「楽器」かと見紛うほどの印象を観客に植えつけてしまう。もともとこの映画は、ブロードウェイの人気ミュージカル作品を映画化したものだ。ジェイミー・フォックス、ビヨンセ、エディ・マーフィーなどと出演者も豪華。

ビヨンセはもとより、コミカルな映画の出演が多いエディ・マーフィーがこんなに歌唱力があったのかと再認識させられる。

内容は、仲良し3人組の黒人女性グループが、紆余曲折を経ながらスターに登りつめていくまでのサクセスストーリー。「ドリームガールズ」は、DVD でなく劇場(シネコン)に足を運んでこそ、本当の感動が得られる映画といえる。

■ボギー・ジョーンズの独り言 07年1月

「北極の氷が30年後には溶けてなくなる?」こんなショキングなニュースが数週間前に話題になりました。たしかに今年の冬は暖冬ですね。今年に限らずここ近年といったほうがよいのでしょうか。マスコミで言われているように、たしかに「温暖化」と感じます。

こんな話もあります。アメリカの国防総省が専門家に依頼して作成した地球温暖化の影響による気候変動を想定した安全保障の報告書(2004)によると、地球温暖化による海流の変化が原因で、北半球では2010年から平均気温が下がり始め、2017年には平均気温が7〜8℃下がることが予想されるそうです。逆に南半球では急激に温度が上がり、降水量の減少と干ばつなどが起こる可能性が高いということです。

前述の話はどうあれ、北極の氷が解けると真水が海に流れ込み、海流に影響が出るのは間違いないようです。そう「ディープインパクト」(お馬さんではありません)という映画はこのような資料に基づいていたのかと思うほどです。

人類はイヌイットのように−20℃でも生活でき、また+50℃の地域でも生活が可能です。植物・他の動物は+−70℃の気温の幅にはとうていついていけません。

なぜでしょうか。人類は住環境を変えたり(移動)、衣服をまといまたは暖房・冷房と(対応)できますが、動植物はさにあらず。単体の種としてはある地域しか生存できないのが現実です。人類だけが良くも悪しくも地球環境を左右できるわけで、このことから地球環境のキーマンであることは明らかです。なにより人類には地球上に天敵がいないのですから、少しでも環境破壊につながらないように誰もが自分の生活に照らし合わせて考え、行動していかなければならない時期といえるでしょう。

地球環境を温暖化などによって破壊するのも人類。また、この地球環境をよりよい方向へ導き維持していくのも人類の(英知)といえるでしょう。こと地球温暖化という言葉を聞くと、「驕れるもの久しからず」という言葉が重く感じる昨今です。

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年12月

平成18年も残すところあと2週間となりました。読者の皆様にとってはどのような一年だったでしょうか。「平凡な一年だった」と答えられる方は、ほぼ幸せだったと思います。なにせ「平凡なほど非凡なことはない」という諺もあるぐらいですから。

12月は忘年会・納会・クリスマスなど、いろいろなこの月ならではの行事も重なる月でもあります。外国人には、とうてい理解しがたい日本人の生活様式を垣間見る時ともいえるそうです。だってそうでしょう。11月の末くらいから、街にクリスマスのイルミネーションが現われ、やれお歳暮だとか年賀状の手配・年末・大掃除・正月の準備と、暮れ市に行ってしめ飾りを買う。キリスト教と神道・仏教が入り乱れて行事が進行していきます。

ところで「師走」の語源は何かと紐解くと、いろいろな説があるようです。

平安時代の「色葉字類抄」という中に「師馳す」ということばがあり、師匠がお経をあげるために東西奔走することからきているとか、年が果てる=としはつが転じたものとか諸説紛々です。

落語の世界では、それまで商売柄口先だけで支払いを延ばしていた落語家の師匠が、大晦日には何がなんでも払うようにいわれ、金策に困って師匠が走り回るところからきているという話もあります。

個人的には、こっちのほうが分かりやすい気もしますが、これはあくまでも落語のネタで年末の落語の枕=(前振り)に使われることも多いようです。

今年の読者の皆様のご愛顧に感謝しますとともに来年もよろしくお願い申し上げます。

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年11月

ひさしぶりに映画を観てきました。地元?っていうか?スパ・リゾートハワイアンズの生い立ちを描いたものです。よかったです!!ほんと。涙腺が弱い私としては大変でした。

ストーリーはこんなぐあい。それまで黒いダイヤと呼ばれて戦後の復興の大切なエネルギー源として珍重されてきた石炭が、時代とともに斜陽産業へと移行していく昭和30年代前半の常磐炭鉱にスポットを当てたものです。常磐炭鉱の起死回生を狙い、炭鉱から出る温泉を利用して「ハワイセンター」?と言うテーマパークを作ろうと会社は画策し、そのためにフラダンスの踊り子を炭鉱の女子から集め、保守的な地元の反対にもめげず、紆余曲折を経てオープンまでこぎつけるという物語。

こういうと、なにも面白そうではないように思えますが、映画の中の会話がほぼ茨城弁とおなじ「〜だっぺ」「しゃんめー」「じゃーな」「ボケナス」などの連発。親近感なんてもんじゃないですね。けっこう「はまります」。

それに「元祖!町おこし」かつ実話なので、何度かハワイアンセンターに行ったことがある人にとっては感動もひとしおかと。一度観にいぐかな。個人的には、「オールウェイズ」よりよかったと思います。みんな観にいぐべよ。おっと訛ってしまった。

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年9月

「白洲次郎」という人をご存知でしょうか。最近読んだ本のなかでちょっと感動したが白洲さんの書いた批評や論評をまとめた「プリンシパルのない日本人」という本です。白洲次郎本人よりも、今では美術工芸・日本文化についていろいろな著書のある奥さんの白洲正子さんのほうが有名かもしれません。

本の内容は、昭和28年から30年代前半の当時の政治や財界・教育論・現憲法などについて著者の見解・意見・批評が書かれており、その分野は多岐に及びます。当時は朝鮮戦争特需後の日本。特需というバブルが終わって以降、日本経済がやや下降気味のそんな時代背景です。

白洲次郎は、1902年に神戸の裕福な家庭に生まれ、青春時代をイギリスのケンブリッジ大で学び、その一方ベントレーやブガッテイを乗り回すという、いまでいえばお金持ちのやんちゃ坊主というところだったかもしれません。その後、実家が破産し帰国。樺山伯爵家の次女:正子(吉田茂の親戚)さんと結婚。以後、日本水産の役員、近衛文麿の経済的なブレイン、吉田茂の外交のサポートとしても大活躍した人です。そして何より直言居士。GHQとのやりとりでは、こんな逸話もあるそうです。GHQのお偉いさんに向かって「君の英語は、なまりがきつすぎる。ちゃんとした英語で話してくれたまえ」といったとか。また、「戦争に負けはしたが、奴隷になったわけではない。言うべきことは言わねばならない」とも。GHQからは「従順ならざる唯一の日本人」とも呼ばれたそうです。

50年前の論評ですが、現代に通じる真の言葉がたくさんあります。(新潮文庫) ぜひ、ご一読を。

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年7月

梅雨前線が活発で、なかなか梅雨明けの発表がない。今の時期、雨が断続的に降ったりして、暑さも相まって蒸し風呂のような日が続いている。

さて、この雨という言葉の種類は、日本が世界で一番多いとか。そのためか浮世絵などにも雨が降っているさまをモチーフにした絵も多い。一方西洋絵画に目をやると、日本のそれとは比較にならないほど少ない。まずお目にかかったことがない。印象派以降の絵画でも嵐や暴風雨を題材にしたものは存在するが、そぼ降る雨や夕立などの降っている瞬間・様子を絵全体に線として雨が描かれているものは皆無に近い。付け加えるなら雪の降っている風景も同様だ。

ジャポニズムで有名なゴッホなどは、浮世絵を模写して雨を描いてはいるがあくまで表現の参考としてであって本来の絵の対象としてではないようだ。なぜだろうか、やはりその理由は四季のある日本の気候風土によるところが大きいのだろう。気候のなせる業なのか西洋絵画では、雨は題材になりにくいらしい。日本のように雨に関する言葉が60種類を超える風土だからこそ、雨をモチーフにした絵も受け入れられるのだろう。

栃木県の馬頭町にある安藤広重美術館に雨を描き込んだ浮世絵が数点収蔵されている。お近くのお出かけのときにはぜひぜひ。ちょっとほっとする美術館であること請け合いです。

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年5月

今月はちょっとお堅い話です。最近話題の「国家の品格」を読みました。新書では極めて珍しいベストセラーです。

今の解決策が見つからない日本社会のあり方に、解決の糸口を示すような珠玉の1冊といえるのではないでしょうか?著者は藤原さん。作家の新田次郎と藤原ていの次男さんで大学教授です。 なにが素晴らしいかって?国際社会の中で埋没しそうな日本のアイデンティを改めて指し示すような、文章がそこかしこに綴られています。

ポイントは、「武士道」の道徳観念が日本人の心のベーシックにあり、それをないがしろにしてはいけない等など。武士の情けや弱いものいじめなどの卑怯な行動は、もともと日本人の精神の中にはあったものであるとし、またライブドアにみられるような「拝金主義的な企業行動あるいは個人活動」は、欧米とくにアメリカ的な精神構造の悪影響を受けているとしています。拝金主義に囚われず自国の歴史と文化をよく理解し、徳を積むことこそが慣用とも。

また国際化に伴い、小学校から英語を教えていくと文部科学省が進めていますが、これに対しては反対を唱えています。

そのわけは、こんなことです。明治時代に国際化を急ぐ当時の政府の方針もあり各界の優れた日本人が渡欧しました。そうですね、茨城県になじみのある岡倉天心などもその一人です。岡倉天心は英語が得意だったそうですが、他の人は流暢にしゃべれることはないわけで、にもかかわらずその国で評価や賞賛を受けたという人が大勢います。

真の国際人とは、自国の歴史や文化を理解し他国のそれをも許容し、理解しえることが真の国際人であり、ただ英語等がしゃべれるのが国際人ではないといっています。やはり、日本語で語るにしても日本の文化や芸術を説明できないことには相手にされないということです。

うーーん。ごもっとも。私が今まで少なからず、問題に感じていたことの打開策や指針となるヒントになりました。ぜひ、ぜひご一読を。

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年4月

今年のゴールデンウィークに海外旅行に出かける人は、57万人と過去最高とか。そんなニュースを聞いてふと自分の初めての海外旅行のことを思い出しました。

私の初めての海外旅行は、香港・バンコク・マカオ7日間。中学校3年になる春休みのことですから、1971年のことです。ベトナム戦争真っ只中。 思い出すと、手続きとかなんやかんやと大変でした。パスポートは1回こっきりのもの。今でもあるのでしょうかね。

また、場所が場所だけに、「コレラ」や「マラリア」の予防接種は当然でした。痛かった---。

当時の国際空港は成田空港はまだなく羽田空港からの出発でした。記憶をたどれば、エールフランスでした。飛行機はボーイング707だったと思います。ジャンボはまだ就航してなかったです。初めて機内に入ったときの、ちょっときつい香水のような臭いがしたのを覚えてます。トイレに入ると、今は紙ナプキンで手を拭いたりしますが、その頃はちゃんとした布のナプキンでした。

そうそう航空会社の旅行バッグ(機内持込み用)をもらってとても嬉しかった記憶があります。そのころは、どの航空会社も旅行バッグをくれました。当時は、今のように飛行機に直接ビルから乗り込めるものではなく、バスで行ってタラップを上っていくというスタイル。現在の成田空港は、エスカレーターで下りていくのを、見守って終わりですよね。

そのころはバスに乗る前に見送りの人と話ができるスペースがありました。そうですね 刑事ドラマに出てくるような、犯人と面接できるように透明で小さい穴がたくさん開いたガラスの壁です。壁越しに「いってくるよー」とか「生水は飲んじゃだめだよ」などと声を掛け合ってから乗り込んだものです。今考えると、情緒があったと思います。

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年3月

先輩との会話の中で、面白い話を聞きました。それはこんなこと。

先輩A:最近、山が荒れてきて大変だってね。山や山林に手を入れる人もいなければ、材木としても間伐材程度にしかならないっていうね。

先輩B:昔は、男の子が生まれると、親やおじいちゃんが自分の山に木を植えて、その子が大きくなったら切り出して売ったり、家を建てるときの材料にすることがあったんだよ。10里四方っていうから40kmぐらいの範囲から切り出した木が立てる土地の風土にあっていて長持ちするっていう話もあるよ。

先輩C:そうなんですよね。うちも僕が生まれたときにじいさんが、山に木を植えて大きくなったら使うようにっていうのがありましたけど、でも手を入れてないから全然使い物にならないんです。

先輩B:親って漢字を分解してみてごらん。立ち木を見るって書くだろう。親ってのは、立ち木を見てその恩を分かるってことらしいよ。昔、俺のおじいちゃんがいってたよ。

先輩A: 「なるほどね-----」

先輩C:「本当に親って言う字は、そうだね」

私:「たしかに------」

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年2月

 「いただきます」がちょっとした論争をおこしているようです。きっかけは、TBSラジオの「永六輔その新世界」でのこと。引き金は「給食費を払っているのだから、子供にいただきますを言わせないで」と学校に申し入れた母親がいたという手紙をもとにした放送からでした。

 多くの視聴者は、当然この申し入れに否定的な意見を寄せています。一方、手を合わせるのは、宗教的な思想が入っていておかしいという意見や、お金を払っているのだから不要という擁護する意見もあったとか。

 こんなことが話題になるほど、日本人のハートも殺伐としてきたのかと思うと情けない限りです。お金を払っているからいいってもんじゃないと思います。こんな母親に育てられた子供がかわいそうと思うのはヘンでしょうか?

 新聞の集金の時にも、いろいろな場面に遭遇します。20年や30年ほど前は、新聞配達も学生さんがいました。その頃は、クリスマスや元旦にお客様にプレゼントをいただいたとか、飴やお菓子をもらったということもありました。また、ポストに「元旦の寒い中、ご苦労様、がんばってください」とのメッセージが貼ってあったことも。このようなときは、本当に嬉しいです。寒さも吹っ飛びます。 最近は少なくなりました。時代ですかねー。でも、時代が人を作っているのではなく、人が時代を作っていると思うのですが。

  最近、集金の際に両親が働いていて不在の方も多く、なかなかお会いできない場合もあります。でも、子供さんしかいなくても、封筒に(新聞代)と書いて子供さんに渡してある読者。あるいは、「家内がいないから、また来てくれ」といわれることもしばしば。もちろん仕事ですから伺いますが、こちらからするとご主人が支払っていただければ本当にありがたいです。そうそう、こういう方も少なくなりました。集金の際に、奥さんが「ご苦労さまです」といいながら玄関で膝を折ってお金を渡してくれるお客様。こちらも、頭が下がります。でもこういう応対すら、知らない人も多いのでしょうね。 生意気なことばかり言っているといわれても困ります。誤解のないように。

 最近でも、集金時に暑いときに冷たいものや、寒いときに暖かい飲み物をいただくときもあります。こちらも感謝。紙面を借りてお礼申し上げます。  話が脇にそれましたが、拝金主義が横行する中、感謝の気持ちを伝える「ありがとう」、「ご苦労様」、「いただきます」などの言葉は風化させたくないものです。

■ボギー・ジョーンズの独り言 06年1月

 携帯電話の普及は峠を越えて、ほぼ老若男女が使っているご時勢です。今では、小学生さえも持って歩いているとか。昨今の下校途中の児童が襲われる事件もあり、保護者も子供に持たせて安心を得る場合も多く見受けられるようです。

 ご存知のように、携帯電話はダイレクトにその本人に連絡できるから便利ですが、一方他人を介して電話口に呼んでもらうということは、ほとんどなくなってしまったのではないでしょうか。

 たとえばこんな例。誰しも多かれ少なかれ経験があると思います。その昔、携帯電話が普及していなかったころは、彼女あるいは彼氏の家に電話することさえ勇気がいり大変でした。電話する前の晩から、相手のお父さんでたらどうしようとか、どう話せばよいかとか、好印象を持ってもらうには、どういう敬語を使えばよいかなど、いろいろそれなりに考えたものです。実際電話して、目的の本人ではなくて親御さんが出て無言で切ってしまったという経験をお持ちの方も多いのでは。今振り返って考えれば、それも大事な社会勉強のひとつだったとも思えます。

 たぶん、今では自分の子供たちがどういう友達と付き合っているのかさえ、またどういう行動をしているのかさえ、多くを知らないのが普通ではないでしょうか。おやじめいた話をするつもりは、ありませんが「これでいいのか」って思います。難しいかもしれませんが、家では携帯は使わせないのも一つの方法かも知れません。便利になった分、失ったものもあるとはいえないでしょうか。

■ボギー・ジョーンズの独り言 「Always」三丁目の夕日

 「Always」三丁目の夕日という映画を観てきました。とてもよかったです。ビックコミックのオリジナルという漫画の連載を映画化したもので作者は西岸良平でした。

 ひとりで観にいってよかったと思います。なぜかって?50歳近いおじさんが、ハンカチを出して感動で涙が溢れたからです。時代は昭和33年春。下町から見える東京タワーが建築中で、それが戦争後からの脱却を象徴的に表しているように思えました。その昭和の古きよきノスタルジーがよく表現されています。昭和33年当時は、テレビが町内に数台しかなく、テレビがある家に近所の人達が連れ立ってみんな見に来る。さらにテレビに映し出されているものは、力道山が外人レスラー相手に空手チョップでなぎ倒すさま。冷蔵庫は、氷を入れて冷やすタイプで当然電気を使うものではありません。 路面電車が銀座を走り、下町の路地では男の子がメンコやゴム紐を回すプロペラ式の紙飛行機やグライダーを飛ばして遊んでいるなど、昭和のデティールが盛りだくさんです。

 そう何に感動したかを言い忘れました。この映画の主人公は、集団就職で青森から出てきて、東京下町の小さな自動車修理工場に勤めている高校を卒業したばかりの女の子。その修理工場の家族と近所の人達が織り成す人間模様ってとこでしょうか。当時の純粋かつ素朴、そしてやさしさと思いやりがある人間関係に感動です。ちょっと、寅さんの映画に似た部分が見え隠れする場面もありますが、とにかく心温まる秀作だと思います。ぜひご覧あれ。

■ボギー・ジョーンズの独り言

 あるボランティア団体の関係で、ゴミ問題の講演ビデオを観ました。講演者は橋本さんというNPO関係の方。今、日本では1日一人当たり約400gのゴミを出し、年間でおよそ0.4トンになるそうです。さらに日本国民全部では、生活ゴミ・工場からのゴミなどをまとめて約5億トン。想像を絶する量です。電化製品などはあまりリサイクル出来ずに、埋立地へ運ばれる運命に。しかしその廃棄できる土地すら、なかなか確保できないのが現状のようです。

 ビデオの中で、デスクトップのパソコンなどが山積みで捨てられていたりするのを観ると、ちょっとショックでした。

 考えてみると、家の中には電化製品が溢れかえっています。昭和30〜40年代は、家の電気も15アンペアぐらいで済んでいたのではないでしょうか。今では最低×2倍。40アンペアもしくはそれ以上。リサイクルも大切ですが、リペア(修理)して物を増やさないのも肝要のようです。

 江戸時代は、リサクルとリペアが浸透していてゴミが「0」だったとか。100万人ぐらいの人口があったといいますから、「先人の知恵」恐るべしです。

■ボギー・ジョーンズの独り言

このコーナー名の問合せが数件あります。ボギージョーンズとは「ゴルフの名プレイヤーのボビー・ジョーンズをもじったものですか?」等。正解です。

ボビージョンーズはゴルフ界では「球聖」という称号がつくほど有名なゴルファーです。1902年、米国ジョージア州アトランタ生まれ。5歳からゴルフを初めて28才で引退するまで生涯、アマチュアとしてプレイし、20代半ばで全米・全英オープン、全英・全米アマチュアを制しました。初のグランドスラムを達成したゴルファーとして、また昨月行われたマスターズ(オーガスタインターナショナル)を作った人としても有名です。引退後は、弁護士として生活していたそうです。

来月中旬に全英オープン(THE OPEN)イギリス・スコットランドのセントアンドリュース・オールドコースで開催されます。そんなゴルフ発祥の地が印刷された紙幣があります。全世界のゴルフのルールを作成しているロイヤルエーシェントの創設250年を記念したものです。さすがお国柄がよく表われています。(ちなみにスコットランドの5ポンド紙幣)

■ボギー・ジョーンズの独り言 社名の「キャノン」はペケ!

1.アイスノン、2.デジカメ、3.マジックテープ、4.ジープなど、NHKでこれらの商品名を放送する時は、どのように説明するか(言い代えるか)お分かりでしょうか。

1.「冷却まくら」、2.「デジタルカメラ」、3.「面ファスナー」、4.「四輪駆動車」。前記がすべて商標権の所有者がいるためこのように放送しなければならないはずです。

商標登録について、日経の3月28日付の記事が掲載されていました。一般の人が実際に使用した場合に、商標登録の所有権者に不利益を与えるとか、紛らわしい表示がなければ特に問題はないとは思います。

古い話ですが、山口百恵が歌っていた「プレイバック」の歌詞の中で、民放で歌うときは「真っ赤なポルシェ」でしたが、NHKでは国営放送であるためにその部分を「真っ赤な車」と歌っていたはずです。なかなか面白いものです。

 こと会社名にいたっては、さらに厳しいものがあります。私が雑誌の記者をしていたときに、上司に叱られた苦い思い出をひとつ。デジカメやOA機器で有名な会社「キャノン」。これは間違いです。正式には「キヤノン」で「ヤ」は大文字が正解です。なぜかって。これは「観音様=カンノン」に社名が由来するということからです。確か、同社の広報からの文書(ブリーフィング)には、「ヤ」は大文字と記載されていたような記憶があります。

ボギージョーンズの独り言「君が代」のさざれ石とは?

 3、4月は新しい卒業式や入学式など、人生の節目となる時期です。最近の卒業式では、「仰げば尊し」などは、歌われるのでしょうか。一時期は、ドラマ「金八先生」の主題歌が歌われたこともありました。「君が代」はどうでしょうか。

 「君が代」といえば、先月に鹿児島の霧島神社に拝観したおり、発見がありました。「君が代」に出てくる「さざれ石」があったのです。要約するとこんな説明書きが、「さざれ石は、じゃりや小石が地中で岩になってそれが地表に出てきたもの」とのこと。ということは、「君が代」の歌詞は、「千代に八千代に」「さざれ石の巌となりて」「苔のむすまで」と、すべて言葉が未来永劫の繁栄を願って繰り返し歌っているものともいえます。「君」は誰を指すかということで、諸説があるそうです。みたとおりの「天皇」また、「国民」古くは「恋人」という話も。もともとは祝儀ときに歌われたとも。ちなみに、「君が代」には、二番の歌詞も昔あったそうです。

 1881年(明治21年)文部省が編集した「小学校唱歌初編」には、こんな記述が。君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで、うごきなく常盤かきはに限りあらじ。(二番)「千尋の底のさざれ石の鵜のいる磯とあらはるるまで、限りなき御世の栄をほぎたてまつる」と少し長かったそうです。